5月5日は『子どもの日』。5月といえば日本は新緑に『薫風』で、風が爽やかな季節になるが、今年は新型コロナ・ウィルスのために、ゴールデンウィークの観光地は感染を恐れるあまり『来ないで』と宣言する始末。

今日現在、日本の感染者数は15000人を超えたが、フィリピンは9500人と急激に数が増え、その内セブは1000人を超えて勢いは緩む様子がなく、爆発的感染が各所で起きている。
セブ島は3月半ばから封鎖され今もまだ続いているが、感染者はセブ市を中心に収まる気配はなく、人々も自宅に籠る生活に倦んで用もないのに外へ出る人間が増えた。
封鎖直後は走行する車はパッタリ消えていたが、最近はエンジン音高く通り過ぎるオートバイや車が増え、ナンバープレートの末尾番号で走行曜日を決めてもあまり効果がないようだ。
小生などは1月下旬に或る日本人の葬儀に出たのと、2月に1、2回買い物に行っただけで自宅に籠っているが、元々、生活ペースは自宅から出ないために個人的にはさして苦痛を感じることはない。
それでも、庭の植木に水をやったり、家の中を片付けるなど1日のメリハリを付けているが、家の中の大掃除というのは日本や他の国でも実行している人が多いとの話を聞き、我が家の場合は家人に引っ張られている。
街の真ん中に住んでいるから粉塵も多く、窓や室内に溜まる埃の多さには慣れていても、改めてその溜まり具合を見ると、この埃を常時肺に吸入しているかと思うとゾッとするが、こればかりは防ぎようがない。
そのため、セブ島北端の町にセブ市内よりは空気は良いだろうと、別荘というには大袈裟だが小舎を造り、時々泊まりに行っていたが、この楽しみも移動禁止で1月以来行くことを絶たれている。
さて、物置と化していた自宅の小部屋を整理、整頓すると、30年以上の資料やら何やらたくさん出て来て、そういった物を放り込んでいるのは分かってはいたが、この際要らない物は廃棄処分にした。
一番多かったのは1990年代に日本で1年近く勉強していた時の資料で、これは今も今後も全く役に立たないと判断し、最初は裏の白紙部分を使おうかと思ったが、そういうことを考えていると作業が進まないので廃棄した。
フィリピンではゴミを漁って生活する人々がいて、そういう人に見られるのも嫌なので、全部ビリビリに破いて小さいビニール袋に入れたが、紙もまとまると重い物で、その数は現在8袋となっている。
幸いセブ島封鎖とはいえ、市のゴミ収集作業は機能し、週に1回は回って来るのでゴミ出しには助かり、こういう作業従事者には毎度ながら頭が下がる。
他に、セブ日本人会が出していた隔月刊の会報誌『セブ島通信』【写真】が大量に出て来て、これも複数持っている号は全部廃棄したが、バックナンバーを揃えると一番古いのは1991年8月発行の第5号であった。
この年の5月に小生はセブの会社に赴任したからその直後の発行になるが、セブ島通信の編集をしている人は長年の知人で、ワープロを持っていたので手伝いを頼まれたが工場の立ち上げの真っ最中で大変な時期であった。
当時は台紙に印刷した記事を切り張りして紙面を作り、それを印刷所に持ち込んでオフセット印刷をしていたが、後年、パソコンの画面上で編集出来るなどは夢にも思わなかった時代である。
一番新しいのは2006年9月発行の第94号で、この年の10月にホンジュラスへ行って家人と共に2年間の生活を始め、日本人会とも縁が切れてセブ島通信もこれ以降はない。
このセブ島通信、いつまで紙で発行していたのか分からないが、今はHPに移行していて、HPを覗いても無味乾燥、中味も全くない内容で、とても続けて見られるような物でなくなった。
セブには日本のIT企業や人材も多いと思われるのに、この貧弱さは馬鹿じゃないかと思い、そういう意味では何のかんのといわれながら、長年ボランティアで紙面を作っていた亡くなった編集責任者は、偉いことは間違いない。
今、ネット上に玉石混交の情報が溢れているが、資料として強いのは紙媒体で、セブ島通信のようなミニコミ誌でも、何れ1990年代から2000年代にかけてのセブ島の日本人が何を考え生活していたのかが分かる資料になると思って大切に保管したい。
また、数は少ないがマニラに或るマニラ日本人会に反発して別れた日本人の諸団体の会報がいくつかあり、書いてあることは他愛ないが、やはりフィリピンに住む日本人の在り方が分かるので廃棄せず保管をする。
さて、30年以上の塵を払うと標題に書いたが、その中でアフリカ時代の資料が出て来た。
1980年代終わり頃から1990年代初めにかけてアフリカ中央部にある『ザンビア』という国で、3年間を過ごしたが、その時書いていたA4サイズのミニレターのファイルがそのままあった。
アフリカ時代の資料や写真はほとんどを日本の実家に残したと思っていたが、やはり思い入れのあるファイルと少しの写真はセブに持って来ていた。
このミニレター、題名を『名前の無い不定期刊行物』と名付け、当時はワープロの時代でパナソニックの最新型をアフリカまで持って行き3年間で22号まで出していて、ワープロで印刷し、それをコピーに取っている。
A4サイズに細かい字でピッシリと新聞のレイアウトと同じように色々な話題を書いていて、時間が充分にあったための作業であり、今読み返すとヘェ―と思うような話題も多く、改めて3年間の貴重な体験に感謝したい。
このミニレターに関しては本HP上に載せたいと思っていて、写真がないのが難点ながら、どのようにするか考えている最中である。

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