日本のニュースで東京の『駄菓子屋』のことを書いた記事があった。筆者はフィリピン関係の記事を主に書いていたが、そちらの方面にも関心があったのかと興味深く読んだ。

【写真-1 駄菓子問屋は駅前を渡ったビル2階にある】 写真-1は東京の山手線日暮里駅前で、昨年日本へ行った時に駅近くのホテルに泊まった。こちらは東口になり、反対側は谷中の墓地に通じる昔ながらの風景を残すが、東口は駅前開発が進んでタワー・マンションがいくつも建ち、日暮里・舎人ライナーという新線が乗り入れ昔の面影は全くない。
この日暮里東口にはかつて駄菓子を扱う問屋が100軒もあったらしいが、今は1軒を残すのみで、それも駅前のタワー・マンション内に店を構えているというから時代とはいえ驚く。
日暮里駅は高校生の時に常磐線から山手線乗り換えのために使っていた駅だが、東口に降りたのは1度か2度くらいで、駄菓子屋の問屋街というのも見ているのかも知れないが記憶には残っていない。
駄菓子屋と書いているが駄菓子屋と言い出したのは後世のメディアの大人達で、実際に利用していた子どもは駄菓子屋などと気取った語彙など使わず、『何とかの店』と呼んでいた。
小生が通っていた店の場合は『……のばばあ』と呼び、これは近所の子ども達の共通語であり、ばばあというのは下町では蔑称ではなく、大人達も親しみを込めて同じ様に呼び、タレントの毒蝮三太夫が放送の中で『ばばあ、じじい』と連呼するのと同じである。
店は普通の民家の軒先を改造して土間の様になっていて、そこに菓子や飲み物を置き、値段は憶えていないが夏はトコロテンと舌が赤や青く染まるかき氷を出し、寒くなると奥の座敷で『ボッタ』が出来た。
ボッタというのは今は『もんじゃ焼き』などと気取って高い値段で商売しているが、ボッタの中味はキャベツ、青のりが少々入った醤油味で、それを鉄板の上に流して糊状にして小さな金属へらで食べたが、家から持ち出した玉子を入れるのが贅沢な時代でもあった。
小麦粉の溶きが緩いので『ボタッ』と落ちるのでボッタとなったもので、もんじゃ何とかなどと言い出したのはやはり後世のメディアが作り上げた呼び方で、ボッタを知っているかどうかで下町度の体験、濃さが分かる。
売っている菓子で今も記憶に残るのは細いガラス管に入った着色された寒天で、尻の方が少し窄まっていて、そこから吸い込むとズルズルと口の中に入って来る感触は忘れられない。
また、大小の三角状の飴に糸が付けられて束ねてあるのを糸を引っ張って当てるのがあって、ズルをして先に大きな飴の方を引っ張って動いた糸をさも引いて当てた様なこともしたが、今思うとばばあはお見通しであったのではないか。
大きくなるに連れて駄菓子屋通いは終わり、商売もいつの間にか止めたようだが、先年実家へ帰った時にその店のばあさんが亡くなったと聞かされ、その年齢が80をいくつか超えていて、年齢を逆算すると中年の頃に子ども相手の駄菓子屋を始めていた勘定になる。
そういえば旦那というような男の姿を店で見たことがなく、もしかすると戦争未亡人が女手一つで始めた商売かなと思い、子どもとはいえばばあと呼んで悪かったなとシンミリした気持ちになった。
先のニュース記事中にインチキした飴は『糸引き飴』といって、まだ扱っていることに驚くが、その他『アンコ玉』『イカ』など懐かしい品物をまだ作って売っているというから、一度日暮里にあるこの問屋を訪ねてみたいものだ。
問屋が日暮里に1軒などと聞くと懐かしさだけでは生き残れない時代で、都内にはもう何軒も駄菓子を商う店はないという。そういった中、レトロが商売になると目を付けた連中がモールなどで駄菓子を扱う店を展開しているが、目先を変えただけでコンビニと変わらない。

【写真-2 こういう小分け方は芸術的といっても良い】
菓子や調味料、缶詰、時には野菜、簡単な日用品などを小分けにして売る店をフィリピンでは『サリサリ・ストア』と呼んでいて、都市部の密集地域などではこのサリサリが数軒おきで商売している所もあって、どうやって成り立っているのかと不思議に思うこともある。
海外出稼ぎのフィリピン人の夢が将来サリサリ・ストアを開くというのが結構あって、写真-2はそういったサリサリ向けに品物を下ろす店で、スーパーなどでも小さな袋入りの菓子類を大量に買う人が居るし、サリサリ専門のスーパーもある、
それを仕入れて店先で売って利益を得ているからささやかといえばささやかだが、これで一家の生計を立て子どもを学校に通わせるというから、小商売だと馬鹿には出来ない。
もっとも、小資本ですぐに出来る商売だから潰れる店も多く、そういった店は売るよりも自家消費に回った、或いはツケが溜まり過ぎて回収出来なくなったを原因とするが、潰れても隣の家が始めるなど逞しいといえば逞しい。

【写真-3 周りに張ってある携帯電話会社の宣伝が多くなったのも今風】
写真-3はセブ島北部の町で見かけた『サリサリ』だが、どこのサリサリでも例外なく金網や鉄格子でしっかり囲まれていて、これは強盗や泥棒除けのために設けているが、サリサリの小金を狙うようではフィリピンの治安状況はまだまだである。
サリサリには品物を出し入れする窓口の横に点っている小さなランプが置いてあって、ランプは店でバラ売りの煙草を買った客がそのランプで火を点けるためにあり、夜になって薄暗い中に点るランプの火は印象的であった。
あったというのはバラで煙草を買う人が少なくなり、使い捨てライターが普及したためで、フィリピンの慣習として煙草の火を隣で吸う見知らぬ人に黙って手を出せばもらえ、これを見た時は面白いと思った。
煙草のバラ売りも、かつては交差点などで煙草をたくさん入れた木の箱を抱えて信号待ちの僅かな時間で売りながら火を点けていたが、こちらは使い捨てライターを使っていたが、この光景も姿を消しつつある。
サリサリからランプが消えたのや交差点から煙草のバラ売りが消えたのも、フィリピンの経済成長と関係があって、今は使い捨てライターなど当たり前だし、煙草も箱ごと買う人が増えたためで、使い捨てライターなど日本土産としてフィリピン人にあげると喜ばれた時代もあった。
駄菓子に戻るが、駄菓子屋で仲間とワイワイやってボッタを食べた時代というのは貧しかったが、クラスや仲間内で苛めがあっても、それを嗜める空気ははっきり流れていて、今でいう『引き籠り』などというのはあったのかなと考えるが、またにしたい。

|