
【写真-1 近くの山の中には少数民族が住んでいる】
アメリカという国が史上初めて戦争で負けたといわれる『ヴェトナム戦争』は、1975(昭和50)年4月30日に南ヴェトナムの首都サイゴン(後のホー・チ・ミン市)が北ヴェトナム軍の攻撃によって陥落、終結を迎えて南北に分かれていたヴェトナムは統一に至る。
その前後に北ヴェトナムの共産主義路線を嫌った南ヴェトナムの人々は国外脱出が相次ぎ、陸路ではタイ、小船で南シナ海に脱出した一団は『ボート・ピープル』と呼ばれ、その数80万人といわれているが、国連の調べでは内20~40万人は暴風雨や船の沈没、海賊に襲われたなどによって内20~40万人は死亡したというから、この逃避行も戦争中より酷かった。
南シナ海上を漂い大型船に救助されたりフィリピンに漂着したボートピープルのために各国に難民収容所が造られ、フィリピンに造られたのがバタアン半島先端に近い『モロン(Molon)』で、ここはフィリピン最初の原子力発電所の造られた立地場所でもある。
モロンの難民センターはヴェトナムだけではなく、カンボジア、ラオス3ヶ国の難民を受け入れ、独裁者マルコスが戒厳令を布いていた時代の1980年に開設され『Philippines Refugee Processing Center(PRPC)』と名付けられたが、バタアン原発は1976年から工事が始まっていて、その近くに難民センターを造るのは何かがあったのであろう。
マルコスの妻のイメルダが当時の『Minister of Human Settlments』の大臣を1976年から就任していて、この省は国内貧困層の居住問題を扱っていたのでイメルダがPRPCの組織上では最高責任者となり、イメルダは1986年の『エドサ政変』でフィリピンから逃げ出すまでこの省の大臣に座っていた。
そのエドサ政変のあった前か後か忘れたが、小生はマニラからバスを乗り継いでこの難民センターを訪ねたことがあり、確かバタアン原発の傍も通ったような気もするが、モロンからはトライシクルに乗って山の方にあるセンターへ行った。
写真-1はそのセンター内の居住棟の様子だがこういった全体像は記憶にないが、当時センター内には日本から青年海外協力隊の医療隊員が数人配属されて働いていて、日本大使館関係の人からPRPCを訪ねるならと紹介されていた。
看護隊員の案内で医療施設などを見たが、一番驚き今も記憶に残るのはセンター内に保管されていた医療標本で、米軍の撒いた枯葉剤の影響に寄る奇形の小さな胎子が瓶に入っていて、その瓶がネスカフェの大瓶を使っていたことで、センター内で出産したという。

【写真-2 パラワンの難民センター住居棟も同じ造りであった】
写真-2はセンター内の居住棟で、PRPCでは直接訪れていないが、後に述べるパラワンの難民センターではヴェトナムの人に招かれて室内に入ったが、仮住まいとはいえ内部の造りは『馬小屋』のようで驚いたが、モロンの難民センターの住居も似ている。
しかし収容されていた人々はやがてアメリカなど欧米へ行ける将来があるので結構明るく、ヴェトナムでは信頼を示すために煙草を回す習慣があるといって煙草を吸えといわれたことには煙草を吸わない小生としては困ったが、こういう慣習はアメリカの先住民にあったなと煙草を咥えることはした。
バタアンの難民センター名に処理を意味する『Processing』が入っているのは、ここで難民受け入れ国に送り出すための健康管理と英語教育などを行うためで、PRPCには先述したようにヴェトナム、カンボジア、ラオスから逃れて来た難民が収容されている。
PRPCには1980年代初頭から医療施設や居住棟建設など諸設備に日本のODA無償資金が10数億円が供与されていて、業務を担ったのは国際協力事業団(現在の国際協力機構=JICA)になるが、の流れから協力隊員が入るようになったようだ。
当時のJICAの報告書があってそれを読むと1980年1月から1982年11月までの2年弱の間にPRPCにはヴェトナム人4万5071人、カンボジア人2万6328人、ラオス人1万3940人、計8万5339人が収容されていたことが分かるが、これは順次受け入れ国に送り出しているから延べ人数になる。
これら難民の受け入れ国と受け入れ数も記載されていて、それによるとアメリカが断トツの7万8341人、次に西ドイツ2418人と続くが三番目のノルウェーの472人を境にヨーロッパ諸国やオーストラリアなどの受け入れ数は2桁台に止まっている。
その結果、難民受け入れ総数は8万1385人となっていて、この数字だと4000人弱少なく数は合わないが、フィリピン人と結婚してフィリピンに留まって同化した者も結構いたという。
PRPCを訪れたのは週末であり翌日曜日にセンター内で日曜市が開かれるというので行ったところ、それぞれの国の産物を露天で売っていて、ラオスの織物はミンダナオ島の少数民族の模様と似ているなと興味を持ったが、国を脱出する時に貴金属と一緒に持ち出した品物といっていた。

【写真-3 今改めて見ると本当に空港と市内に近い場所に造られた】
パラワンに難民センターが開設されたのは1979年でモロンより早く、これはボートピープルの乗った船がパラワン島に漂着するのが多かったためで、パラワンの難民センターは『Philippines First Asylum Center(PFAC)』と名付けられている。
最初を意味する『First』という語があり、『Asylum』というのは『亡命者の仮収容所』という意味で、まだ難民を意味する『Refugee』という言葉が入っていなくて、受け入れたフィリピン側にも体制が整わず急遽造られた感じは強いが、設立したのはキリスト教関係者であった。
写真-3はそのPFACの空撮で、左から右に見える白い部分はプエルトプリンセサ空港の滑走路で、PFACは空港の余剰地を使って造られたことが分かり、そのすぐ右側は海岸線である。
パラワンには三度行っているが、1990年代に初めて行った時は日本から来た知人と一緒に近くの小さな島で過ごし、また露天風呂に入った記憶もあるが、帰り際に市内に難民センターがあるというので行ってみた。
PFACの入り口近くに今にも壊れそうな木造の小さな船が展示されていて、こんな船で良くぞ南シナ海に乗り出したものだと思ったように、ここにはヴェトナムのボートピープルだけを収容していた。
観光客が普通に訪ねられるように半ば観光地化していたが、先述したように馬小屋に住んでいると思ったように必ずしも良い環境ではないが、何れアメリカなどに行けるから暗い感じはなかった。

【写真-4 それでも市内にはヴェトナム人が他の地域より多く住んでいる】
このPFACは1993年になって市内のKM13という地域に移転し、難民センターという枠から離れて定住化し最盛期には4000人程が住んでいたらしく、『VIETVILLE』と名付けられ、それに伴って写真-4のカトリック教会やヴェトナム仏教寺院なども造られかなり賑やかであったという。
また、その地でヴェトナム料理を主体にしたレストランなども出来て観光地として有名な場所となったが、しかしフィリピンに定住するよりは欧米に移住する方が良いとなって住民は減り続け、今はゴーストタウンのようになっているという。
2018年に3度目のパラワン旅行の時はエル・ニドという島の北部にある著名な観光地へ行きプエルトプリンセサ市内にも泊まっているが、一時は観光客を集めた『VIETVILLE』の話は聞かなかったから、レストランくらいはあるようだがわざわざ行くほどの場所ではなくなったようだ。
その時、帰りのセブ行きの飛行機の窓からかつての難民センター跡地を視界に入れたが、海岸に近いのでどこかの不動産屋が広大な敷地を手に入れてリゾートにでもしているかと思ったが、写真-4の建物群は跡形もなく長い時を経て原野に戻っている。
最後に話は前後するが、あれは1990年代半ば頃と思うが、マニラ国際空港からユナイテッド航空を利用して成田へ帰る時に、空港ロビーに一団のヴェトナム人が空港係員に引率されて現れ、そそくさと搭乗機に乗り込んだ。
これは難民の一団で同じ飛行機になるので話でも出来る機会でもあるかと思ったが、この一団は外部と接触出来ないようにジャンボ機の一等席のある2階に入れられて、成田経由でアメリカに向かったが、あの人達のその後のアメリカ生活はどうなったのだろうかとこの拙文を書いていて思い出す。
