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1945年10月25日(この日はダバオから発進した日本海軍の特攻機が初めて戦果を挙げた日でもある。なお、同日のルソン島クラークから飛び立った、特攻機最初の軍神とされる人物はダバオ隊のかなり後に特攻成功だった)、フィリピン中部のシブヤン海で米軍の航空部隊に撃沈された戦艦『武蔵』のニュースは、発見者がマイクロソフトの創業時の共同経営者、大富豪ということもあって過熱する一方だが(といっても騒いでいるのは日本だけだが)、この発見を巡ってフィリピンの法律に抵触しているのではないかの疑いが出ている。
フィリピンには外国人がフィリピン国内で文化財などの探査、調査を行う場合、国立博物館からの許可や同博物館職員の立会いなどが必要で、今回の発見ではこの手続きが取られずに実施された可能性があり、当局はその経緯を調査している。
このフィリピン政府の許認可に関しては有名な『山下財宝』を目指して掘る内外の山師に対しても適用されていて、その存在を知らずに詐欺話に乗せられる話はフィリピンにゴロゴロしている。
一方、フィリピン政府は国立博物館を中心に海没している武蔵の調査を検討中で、3月中旬頃までに日本政府、地元自治体などと学識経験者を加えた調査団を派遣する予定。
武蔵は当時では超弩級の戦艦で姉妹艦に『大和』がある。大和はその最後が悲劇的な様相もあって、映画やドラマに数多く取り上げられているが武蔵は大和の陰に隠れて地味な存在だった。
どちらの艦も明治の『日本海海戦』の頭を持つ日本海軍が巨艦を建造したに過ぎず、航空戦に切り替わった近代戦には既に時代遅れの代物だった。
武蔵は大和と共にレイテ湾に上陸した米軍部隊を殲滅する作戦に加わり、シブヤン海で30発以上の魚雷と直撃弾が当り、午前10時25分の空襲から数次に渡って米航空部隊の猛攻撃を受けて、同日19時35分に沈没。
乗組員2400名弱の内、艦長以下1023名が戦死、艦と共に海中に没した。乗組員の半数以上は生き残ったが、象徴的な戦艦がいとも容易く沈められた事実を隠すために、海軍はこれら乗組員を人目に触れさせぬように幽閉。
その後、日本に帰された乗組員の中に台湾沖で米潜水艦に撃沈される悲劇も生じ、フィリピンに留まっていた乗組員は海軍の陸戦要員となり、10万人のマニラ市民を日本軍が虐殺したとされる『マニラ市街戦』で、その多くは戦死した。
今回の武蔵発見で、早くも艦内に眠る1000余の遺骨収集の声が上がり、戦前回帰の安倍自民党などは戦後70年の記念すべき発見だと、利用を目論んでいる。
しかし、フィリピンの遺骨収集を巡っては、インチキな日本のNPOが日本政府の委託を受けて収集事業をしていたが、フィリピン人の骨を金を支払って集めていた経緯があり、2010年から中断している。
また、海軍には『水葬』という言葉があるように、陸軍とは違う遺骨感があり安易に艦で眠る戦友の魂を起こしたくないという、元乗組員の意見もある。
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